「まさひろとの日々」
まさひろは、平成26年2月に亡くなりました。
小さい頃は、体が弱く、肺炎で何回も入院していましたが、年齢を重ねるごとに体も丈夫になり、病院にお世話になる回数も減りました。
高校を卒業してからは、スーパーのバックヤードで7年間働きました。
平成24年10月に精巣腫瘍が見つかり、摘出手術を受けました。
経過観察を続けていましたが、1年後の平成25年9月にリンパ節への転移が見つかりました。
本人の意向や、体力、精神面を考え、自宅で最後まで過ごしました。
それでも、回復することを諦めたわけではなく、できる限りのことをしたつもりです。
自宅療養中は、祖父母や家族と湯治に行き、12月の母の誕生日を祝い、お正月を迎え、
1月の自分の誕生日を祝い、バレンタインデーにはプレゼントをもらいました。
最後は、家族に見守られて、充実した26年の生涯を終えました。
まさひろが、ダウン症であるとわかったときから、どんなピンチからもどうにか救うことができ、乗り越えてきました。
まさひろ自身も、「困った時は、お母さんが助けてくれるから大丈夫!」と思っていたと思います。それなのに、一番大事な命を救うことができませんでした。
まさひろの26年間は、本当にいきいきとしていて、光り輝いていました。
乳幼児期は、家族でいつも公園に行って遊んでいました。
幼稚園では、まだまだぼんやりしているように見えていましたが、潜在意識の中にあこがれの像を刻みこんでいました。
小学校では、先生方に丁寧に接していただきました。この時期に社会人として生きる人生の基礎がしっかり構築されました。
中学校、高校では、集団生活の楽しさ、仲間の一員になる喜びを体中で感じていました。
社会人になって、最初は職場の人との意思の疎通が難しく、いろいろありましたが、苦手な部分を理解していただき、ここでもスタッフの一員になることができました。
余暇の時間も充実していました。
彼女とデートしたり、ヘルパーさんとお出かけしたり、家では、絵を描いたり、レゴブロックで恐竜や飛行機を作ったりしていました。
自分の好きなファッションがあり、姉との買い物を楽しんでいました。
どんな人よりも、充実した毎日を送っていて、光り輝いていました。
まさひろは、とても穏やかな優しい性格で、まわりの人を気遣うことに喜びを感じるような人でした。
生まれてすぐの時も、泣くことが少ない赤ちゃんでした。
2歳年上の姉の時と比べると、雲泥の差がありました。
姉は、訳もなく大きな声でよく泣いていましたから。
「そんなに気を遣わなくていいんだよ」といつも語りかけていました。
また、いつも駄々をこねて母を困らせている姉の姿を見ているからでしょうか、駄々をこねることもありませんでした。
自宅で療養中に、まさひろとおしゃべりしている時のこと、
私が、「お母さんね、~だったんだよ~」と話すと、「お母さん、自分のこと『私』って言いな」とまさひろに言われました。
今まで母親として生きてきたけれど、もう自分に戻っていいんだよ、と言っていたのだと、最近、気付きました。
また、「僕が別荘を建てるから、お母さんはそこで植物を育てればいいよ。」とも言われました。
まさひろが亡くなって、「東京で働く意味がなくなった」と、姉は八ヶ岳に移り、今、別荘として使われていた家を借りて住んでいます。
敷地が広く、その中に雑木林もあるようなところに建っています。
先日、うちのベランダの鉢植えのクリスマスローズを持って行って、植えてきました。
ダウン症のある人は天使であると言われていますが、私たち家族は、ひとりの大人として、まさひろに接していました。 しかし、まさひろの光り輝いていた人生、優しい性格、残されたことば、そして何よりもその早すぎる死を思うと、まさひろはやはり天使だったのだと感じます。
まさひろが生まれて、私は再度育てられました。
視界が広がり、価値観が変わり、見えないものが見えるようになりました。
まさひろと一緒に過ごす日々は、至福の日々でした。
私のところに生まれてきてくれて、幸せな26年間をありがとう。
平成26年9月
まさひろの母